数学なんて
数学なんてやってどうなるんだ?
そう思った人は多いでしょう。私もそうでした。
しかし、それは言い訳で、成績が良くなかったから文系に逃げただけあります。
そのコンプレックスからでしょう、理系の人がさっそうと論理だてた言動で活躍するのを見ていると、恥ずかしさと反発心が沸き上がってくるのを抑えられませんでした。
現実だけではなく、森博嗣さんの小説などを読んでいても心がざわついてしょうがなくなる、というような有様だったのです。
(余談ですが、人気学者の茂木健一郎さんが「すべてがF」を読後投げつけた、とどこかで目にしたのですが、どういう理由だったのでしょうね? 調べてもみつけられませんでした)
しかし、このまんまコンプレックスから目を背けて逃げ続ける一生というのはごめんだと感じました。しょうもないプライドを一から学んだほうがいいと決心したのです。
決心して本屋で数学関連を探してみると、結構あります。
なんだ、自分だけじゃなかったんだ。わからなくて、でもわかりたくて、もがいている人たちはたくさんいるものだ。
そう思えただけで楽になり、上記の本を始めとして色々と学んでいくことになりました。
「それが何の役に立つの?」
そう問われても、自信を持ってはっきりと答えられるわけではありません。
数学が社会の中で大きな働きをしていることは、コンピュータプログラミングや建築などの例を見るだけで明らかなのですが、といって自分のような初歩の初歩がプロのお仕事につながるわけではないのも明らかです。
ですからこう答えます。
「やりたいから、取り組みたいから。わかるのが楽しいから」
そして、取り組んでいると自分がちょっぴり誇らしく感じられるから、でしょうか。
Don't think.Feeeeeeeeeeel!
言わずと知れたブルースリーの、燃えよドラゴンの中のセリフですね。
「ふぃぃぃぃぃぃぃぃる!」
と、巻き舌で言うのがポイントだそうです。マニアの方によると。
これはもちろん、「理屈や知識は過去のもの、今現在ではない。頭を使うのではなく、今この瞬間に感じることに意識を集中せよ」
という意味です。
知識偏重、頭でっかちの理屈屋になるな、という戒めです。
それはそれでもちろん正しいし、ブルースリー御大にケチをつける気は毛頭ありません。
しかし、言葉通りに受け取るのは危険です。
なぜなら、感じるままにやっている、ということは、今のやり方をそのまま何も疑わずに続けることになりかねないからです。テニスでも野球でもいいのですが、最初に正しいバットやラケットの握り方、振り方を徹底して学びます。それはやり始めのころは窮屈で難しいものでしょう。
けれども、それは多くの先人が理論と経験の末に学んできた膨大なデータから導き出された理論であります。個人が
「俺は自分の感じるままに、オレ流でいくぜ!」
などと好き勝手していたら、早晩伸び悩んでしまうことでしょう。本物の天才でない限りは。
やはり、論理的に考える、ということは大事です。軽んずるべきではありません。
現にブルースリーも、古い型の拳法では理に適わないと近代格闘技を多く学んだ末に、彼の格闘理論「ジークンドー」を作り上げたわけです。これは現代の総合格闘技の先取りをするぐらいの画期的な武術として評価されています。
それはひとえに、彼が「調べ抜き、考え抜く」ことを貫いたから、本質的なものを創りえたからだと思います。ただの思い付きでは不可能だったでしょう。
論理思考から逃げなかった彼だからこそ、「考えすぎるな」と言えるのであって、キャッチフレーズをそのまま受け取ってはただの思考停止です。
論理から逃げない生き方で在りたい、そう思います。
人生を変えるには? で検索して
しばらく前の仕事の休み時間のことです。
「特に不満はないけど満足もしていない。何とかしなくては!」
という怒りに似た焦燥に駆られて
「人生を変える 方法」
というキーワードで検索し、そこでプログラミングがねらい目ですよ、という記事に遭遇しました。
・元手があまりいらない。基本はパソコンとネットだけ。
・シェアが増えていく分野である
・高給も可能。
‥等のメリットが羅列されていました。もちろんというかなんというか、プログラミングスクールへのリンクが貼られていたわけですが、悪いことではありません。むしろ、やる気になっている人間にはありがたいことでしょう。
で、最初は「これからはAI、機械学習だ。となるとPythonか」と、Python本を読んであれこれ試していたのですが、どうにもその先がわからない。
超基本はできても、そこから仕事につなげていくための次のステップがわからないままだったんですね。スクールなどに入ればその辺の相談もできるのでしょうが、如何せん高額なので踏ん切りがつきませんでした。
その後、「とりあえず早くお金につなげたいのなら、まずはWEBデザイン系がおすすめ」ということを複数の方が述べているのを見て、HTML入門などに方向を転換しました。
とはいえ、数学や英語など、ほかにも修めたいことはあるし、時間の配分にちょっと悩みどころですね。
しかしまあ、「何もすることがない、人生オワタ」なんて言っているまま時間を過ごしていく生き方になっていったかもしれないことを考えると、もうすでに人生は変わっている、と言えるかもしれません。
これで誇れるような成果も出せると文句なしなんですがね。頑張ります。
集中したい
何か一つ「力」を獲得できるなら何を望みますか?
腕力? 知力? 経済力?
悩みますね。一つと言わずにたくさんください、と言いたいところです。
そのたくさんの候補にほぼ間違いなく入るのが
「集中力」
ではないでしょうか。
何かの勉強にしても仕事にしても、ダイエットなどにしても、集中して取り組みさえできれば獲得できるのに、というものは少なくありません。
そういう思いを抱く人たちを対象に、自己啓発の本棚にも「集中力」の本が並んでいます。
ただの根性論ではなく、人間の脳のシステムを使って効率よく集中していくという趣旨の本ですね。
著者が現役のお医者さんだったり、欧米の最新脳科学論文からの引用に基づいていたりして説得力があります。
こういった類書の中でも、ちょっと異彩を放っているのがこの本です。
なんせタイトルからして「いらない」ですから。
学者として博士号を取得し、作家としても成功されている森博嗣さん。
集中力のかたまりのようなイメージの方なのに、いらないとはどういうことでしょう?
そんな疑問を抱きつつ読んでみました。
この本は、別に集中力そのものを完全否定しているわけはありません。ただ、
「集中力は良いものだ。そうに決まっている。違うわけがない」
という固定観念について「ホントにそうか?」というところから論じ、自らの体験も踏まえつつ論理展開していく本です。
「集中して成功した、という例ばかりもてはやされるが、一つに集中したために失敗したり大惨事を招いたりした例は意識されない。結果として成功したことを『集中力のおかげ』として取り上げているのか。ならば集中力が良いものとして認識されるのはとうぜんだろう」
というように、言葉や概念の定義からきっちり考え、一つのことだけに捉われる危険性を考察されています。
一つの要素にだけ捉われて
「もはや戦うか死ぬかしかない」
という固定した思考にはまることが、自殺、戦争などへの道へ向かってしまう要因のひとつではないか、とまで述べられます。
これは自分にも思い当たります。生きることに絶望を感じた時というのは、何かを失ったり、あるいは得られる可能性がないと感じて、道が完全にふさがったと確信してしまった時でした。
一所懸命という言葉にあるように、一つのところで頑張るというのはそれはそれで価値のあることだと思います。
しかし、それが功をなさなかったから生きる価値も方法もない、というところまで思い詰めてしまうのは明らかに害です。
物事に取り組む瞬間は集中し、でもそれが人生のすべてとは思わず常に可能性を探る。
そういう風に生きていけたら楽しいな、と考えています。
セドナメソッド
新版 人生を変える一番シンプルな方法 ― セドナメソッド ―
- 作者: ヘイル・ドゥオスキン,安藤理,乾真由美
- 出版社/メーカー: 主婦の友社
- 発売日: 2014/02/07
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- この商品を含むブログ (1件) を見る
「ネガティブな感情に振り回されてはいけない。だから、強い意志と広い心をもってポジティブでいるようにするべきだ」
それは本当でしょうか。あるいは
「感情を抑え込むのは自分をいじめることだ。だから、自分の言いたいことを言ってやりたいことをやるべきだ。それで嫌われても迷惑をかけてもいいのだ」
というのが正しいのでしょうか。
感情の抑圧、表現。大勢の人間の中で生きていくしかない私たちにとって、どちらも必要ではあります。しかし、どちらも度を過ぎると、ストレス性の疾患や、あるいは社会的に孤立した立場に陥るなど、不便な結果を招いてしまいます。
抑圧と表現のどちらの大事さも認めながら、第三の道を提唱してくれるものがあります。第三の道、「手放し」を教えてくれるもの。
それが「セドナメソッド」です。
新版 人生を変える一番シンプルな方法 ― セドナメソッド ―
- 作者: ヘイル・ドゥオスキン,安藤理,乾真由美
- 出版社/メーカー: 主婦の友社
- 発売日: 2014/02/07
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- この商品を含むブログ (1件) を見る
「手放す? それって感情を無いことにして捨て去るってことじゃないの?」
という疑問が出てくるかもしれません。
結果として無くなることはあり得ますが、決して無視するのではありません。
逆です。
「その感情があること」をしっかりと認めるのです。
手順としては自問自答です。
1.この感情(怒り、悲しみ、不安、‥等)を認めますか?
2.手放しますか?
3.いつ?
こんな感じで自分に問いかけていきます。
「それだけ? 手放すって、形のないものをどうするの?」
手放す、と決めるだけです。
私の場合、息をちょっと止める、手をちょっと握る、など力を込めたのちに、「手放す」と決めつつ力を緩める、という具合に、体感覚とリンクさせるとやりやすいです。
この辺は視覚イメージや、言葉での暗唱がぴったりくる人など、それぞれに向いている方法があるかもしれません。
しかし基本はただ、「感情を認める」そのうえで「手放すと決める」だけです。
「そんなので効果があるの?」
あるんです。
1970年代に、セドナメソッドの元となるシステムができて以来、大勢の人々がセミナーで、書籍でこの手放しテクニックを学び、人生の好転に大いに役立ててきました。
私も半信半疑で、本を読んだ後しばらくは忘れていたくらいでした。しばらくしてひどく気分が悪い時に暇つぶしに
「この虚無感を認める? 手放す? いつ?」
と繰り返していたら、いつの間にか穏やかな感情に代わっていました。びっくりです。
もちろん、これさえやれば万事OKという怪しげな魔法ではありません。
ですが、試さずにいるのはとてももったいないことです。
日々の生活の中に、「感情の手放し」という小さな新しい試みを加えてみるのはいかかでしょうか。
理系へのコンプレックス、そして憧れ
高校の時に、数学で躓きました。微分積分、あたりだったと思います。
で、さっさと文系に逃げました。
「文学等が好きだから」ではなく、「数学がわからないから」の選択でした。
それが一概に悪いとは思いません。学校の、特に受験勉強というのは、制限時間内にどれだけ問題をこなして得点を取れるか、という競技なので、不得意分野を避けて得意分野に勝負をかけるのは理にかなっている選択です。
ただ、それがずっとコンプレックスになっていました。
「どうせ自分にはわからない」
とすねつつ、理系の人たち、特に森博嗣さんの小説の登場人物などを読んでいると、憧れと劣等感が沸き上がってきて、なんだか素直に読めないことが多々ありました。
「何かスキルを身につけなくては」
と思い立った時にプログラミングという選択肢に出会い、連鎖して数学にも向き合うことになりました。まあ、プログラマー=数学得意、というわけでは必ずしもないようですが、といって、まったく無関係というわけでもないでしょう。
なので、漫画でおさらい中学数学、というような本から手に取り、40の手習いを始めてみました。
どこまでいけるかわかりませんが、まあ道半ばで寿命が尽きるというのもなんだかロマンチックではないでしょうか? なんか違う?