邪魔者は消せ

欲しい現実を引き寄せる潜在意識の力、とかいう本やセミナーが手を変え品を変えて絶えませんが、それとどうじに

「世界は幻だ、お金も幻想だ、恐怖も幻想だ、愛しかない」

という非二元とかそういう教えもまたたくさん出回っています。幻想だと言ってる割には、セミナー代金やマントラ代金は結構なお値段をしっかりと集めていい商売じゃねえかと思ってしまいますが、一円も出してない奴に言われたくないと思います。

 

何かを得たい、という衝動と、そういう衝動から自由になりたい、という衝動、これらをグルグルしてしまうのが多くの人ではないでしょうか。

どちらにしても「私」が得たい、「私」が自由になりたい、と、どこまでいっても私がついてまわります。

我欲を捨てたい、というのも「私が」ですからね。

で、「私」という記憶と思考のデータベースをなくそうと、修行者は滝に打たれたり断食して瞑想をしたりするし、忘我の快楽を求めてドラッグやセックスを追い求める人もいます。

そこまで極端でない社会活動、例えばビジネスや政治、福祉などに打ち込むのも、根底は似たような衝動ではないかな、と思います。

で、どうしても「私」なんて消せる気がしない、という絶望に至ると、文字通り自分を殺すことに走る人もいます。「なんでもいいから死刑になりたい」という無差別殺人なんかもやはり自分を、「私」を殺したい、なくしたいという衝動でしょう。

 

邪魔なのは「私」

でもその思いを発しているのも「私」

逃げも戦いもせず、私を観察してみたら?

 

影を迎え入れる

また国会議員が、病で苦しむ人たちへの心無い暴言を吐いてますね。

しかも批判が高まると、「そんなつもりはなかった」と責任逃れに一生懸命。毎度のことながらムカつくことこの上ありません。

 

批判し、この議員には票を入れない(きちんとした処分を行わないのなら所属党にも入れない)という行動を取ることは正当なものだと思いますが、それはそれとして。

スピリチュアル的には、「心に強くひっかかり続けるのは、自分の中の投影である」と言います。こんな議員の妄動も自分の影なのでしょうか。

 

今までの人生で、自分の気に食わないものは「存在するな」「消えてしまえ」と怒りをぶつけたことはなかったか?

ありました。急いでいるのにゆっくりとしか歩けないお年寄りやけが人に対して、心の中でですが怒りをぶちまけたことはしょっちゅうです。

知的障害の人を街中で見かけ、その言動を気味悪く思い、存在することに嫌悪感を怒りを感じることもありました。

もしも自分に「特権がある」ということになれていたら、心の中の暴言だけでは抑えられていなかった可能性はとても高いです。

そしてもしも世間中からそのことに批判をされたら、心から詫びたり堂々と論陣を張るのではなく、

「自分が正しいし間違っていたとしてもほんのわずかだ、こんなに批判されるなんてひどいじゃないか」

と、言い訳しつつ被害者ぶる対応を取ってしまう可能性もこれまたとても高いと言わざるをえません。残念なことに。

 

ゲドは自分の生み出した影に名前を付けることで迎え入れ、我が物とすることで偉大なる魔法使いとして歩みだしました。私はまだまだ、影を統合できたとは思えません。でも、それが自分にあることから目を背け続けるのはもうやめようと思います。

苦しみを長引かせたくはないから。

 

それはそうとアニメのゲド戦記、色々と期待外れでした。あれじゃユパ様の劣化コピーです。偉大な監督とか世界的名作とかのプレッシャが強すぎたんでしょうか。

自愛って、いつごろからか流行ってますね

自分を愛すればすべて上手くいく。

ありのままの自分でいい。

そんなフレーズがスピリチュアルとかそっちよりの心理読み物、セミナーなどで毎度のごとく使われているような感があります。

それは真理であり、だからこそいろんな人が説明として使うのでしょう。

けれども、やはりそこには落とし穴があると思います。

 名著「ずっとやりたかったことをやりなさい」で、ジュリアキャメロンは述べています。

「自分が、下手なアーティストであることを赦しなさい」と。

初めて書いた短編小説をヘミングウェイと比べ、初めて描いた絵をゴッホと比べ、初めて撮った自主映画をスターウォーズと比べ、

「自分には全く才能も望みもない、やるだけ無駄だ、もうやらない」と決めつけてしまいがちだ。自力で立とうとしたことを評価し、よちよち歩きしたことを認めてほめよう、一歩一歩進めばいい、その過程がすでに夢の実現なのだから。

そうやってアーティストの道へ行く人たちを励ましています。

 

けれども、多少なりとも取り組んだものなら大概のひとはわかるでしょう。

「自分の下手さ加減を見つめるというのは、できればなんとしてでも避けたいような苦痛と恥ずかしさである」ということを。

その恥ずかしさ、苦痛、怒り、悲しみなどを感じることを赦すのが、自愛ということでしょう。

それをどうも昨今の自愛を唱えている人の中には、

「へたくそのままで素晴らしいのだから、世間はそのままの私を認めて肯定してお金と称賛を送るべきだ」

というような生き方を突き進んでいらっしゃる方々が結構おられるようです。

それは前向きなようでいて、ただ「下手な自分を認めることの苦痛」からの逃避でしかありません。

「自愛」「自分軸」という概念をごまかしに使っているだけで、向き合う、受け入れることとはほぼ正反対に突進しているといえるでしょう。

そういった人たちを肯定する気はさらさらありませんが、逃げたくなる気持ちもわかります。

文章にしろ絵にしろスポーツにしろ人前でしゃべることにしろ、取り組んでみると自分の出来に嫌になることが多々ありますから。やりたいとかやらなければとか思ってもなかなか取り組めないのは、その恥ずかしさや自分への怒り、悲しみなどの苦痛から逃れようという抵抗なんでしょうね、きっと。

 

たったひとつの邪魔もの

水島広子さんの『他人の目が気になる人へ』を読みました。

他人のことを「自分を評価し、さばき、攻撃してくる存在」としてとらえていることが根本の原因であり、そこに向き合わずにいくら見た目や地位や財産を良くしたり増やしたりしても心が安らぐことはない。

そういう指摘に、心底納得しました。こんな言動をしたらおかしいと思われるんじゃないか、と感じておどおどし、こんなにおどおどしていたら、人目ばかり気にするつまらない奴だと思われるんじゃないか、と苦しくなる。

それはまさに自分がやってきたことです。

たぶん、自信たっぷりで、地位や名声、財を手にした人であっても、大抵はそうなのかもしれません。

力強く我が道を行く、というイメージで売っていた人が、あるきっかけで世間中に叩かれて味方と思っていた人々も離れていったとき、「自分はこんなに弱弱しい存在なんです」とおどけてどうにか受けようとしている、という姿も最近見かけました。

こうでなくては責められると、怯え、他人に対しても、こうあるべきだ、そうでないのはけしからん、と責める。望んで参加している討論や競争なら別ですが、人生全体が「であるべき」という裁きの場になっていては安らぎも幸福もあるわけがありません。

 

といって、「よしわかった、では『であるべき』という思考を絶滅させよう、バトル開始だ!」という取り組みではあらたな裁きができるだけでしょう。

 

気づき。それしかないということでしょうか。

 

ただ向き合う、それだけのシンプルなことなのに

どうしてこうも難しいのか。

「わかっているつもり」でもできていない。

今の状況、過去の出来事、未来への予想。

それらあらゆる思いに対する不満、怒り、恐怖、悲しみ。それらがあることをただ認めて、受け入れていく。

苦しみを「どうにかする」必要はなく、ただ存在することを認めて見つめればいいだけなのに、どうしてこうももがいて長引かせ続けるのか?

 

煙草やお酒を、ドラッグを、スイーツをただ手に取って口にしない、それだけのことが出来ずに苦しみあがく人々が多いのもよくわかる。

シンプルなのにできない。

何故?

 

「自分は、自分の意志や思考は無力なのかもしれない」

そう認めることか始まるのかもしれない。

逆転イッパツマン

「こんな自分は嫌だ。こんな状況は嫌だ。でもそれを変えるには、死ぬほどの努力をしなくてはいけない。そんなに頑張れる自信がない。欲しがるくせに努力ができない自分が嫌だ。どうにかしたい、でもどうにもできる気がしない。こんな人生嫌だ」

 

こういう思考で自己嫌悪にはまってぐるぐるしてしまったとき、酒やたばこでストレスを解消しようとする人がいる一方、何か劇的な一発逆転ホームランを狙おうとする心理が働く人もいます。

宝くじなどのギャンブルに大枚をつぎ込んだり、「ダメニートでもできた月収100万への道!」などという広告にのせられて高額商材やセミナーに走ったり、などなど。

それと同レベルとして、「スピリチュアル」でダメな自分、ダメな人生を一気に変えよう」というものも少なからずあるでしょう。

人がうらやむ大金やパートナーを努力なしに引き寄せる、とか、俗世に煩わされることのない悟りを、マスターからのマントラとエネルギー伝授でゲットする、など。

それで本当に救われるならいいのですが、もしそうならとっくにその手段が世間中に使われるようになっているでしょう。そうなっていない、ということは、多くの人間に効き目のあるものは出回っていないということの証拠です。

それでも、「この新しいメソッドなら、マスターなら」と、探し続けるのをやめられない、それもまた人の心です。

 

スポーツなら、4対1で負けている、と明確にわかりますが、人生、世界なんていうあいまいなもので、「今がダメ」と判断しているのは誰でなんでしょうね?

コインロッカーベイビーと姥捨て山

自分で作り出しておきながら、

「こんなもの欲しくない、いらない」といって毛嫌いし、目につかないところに放棄し、それを当然のことだと思うような人をどう思うでしょうか。

自分があれこれ世話になったのに、色々と不便を感じるようになったら遠くへと捨てて知らんぷり、そんな行動が果たして立派でしょうか。

「好ましくない」と判断した感情に対して、私たちはそれを平気でやっている。

 

その教えを聞いて、思い当たるところがありすぎました。

そしてなぜ、あれこれと心の平安を求めて学んだり治療を受けても、根本的に改善しないのかもわかった気がしました。

「癒し」の名のもとに、感情をどこかへやってしまつすることで平安を得ようとしても、無駄なことだったのです。自分に都合のいいものだけが欲しい、と、作り替えようとすることも同様です。

捨てられたり、強引に作り替えられたりした子供たちは必ず親のところへ復讐にくるでしょう。

それに対処しようとしても、また別の恐怖や嫌悪といった感情を作り出して放棄する、という悪循環へとはまっていくだけです。

 

怒り悲しみ妬み恐怖劣等感、それらが「私」をめがけて戻ってくることは当然自然のことなのでしょう。

それらが「私」に恨みをぶつけて引き裂くままにさせること。

そこにしか、本当の自由と平安はないのかもしれません。どんなヒーラーも医者も、かわりにやってくれるということはできないのでしょう。症状を一時的に治めることはできても、自分で向き合うしかないのでしょう。

自分で作ったものなのですから。