空中3段下痢

と、変換されてしまいましたが、そのままにしておきました。

それはともかく、「空手バカ一代」に子供のころにはまって、空手道場にも通っていたことがあります。

物理的に考えれば、突きにしろ蹴りにしろ、地面を蹴る反動と自分の筋肉での力が合わさって破壊力になるわけですから、空中で3回蹴れたとしても2回目以降は威力がガタ落ちしているわけです。

なんでそんなものが伝説の必殺技になったんでしょうか。と、今なら冷静に判断できますが、当時の愛読者には考えもつかなかったのです。

「まあ、漫画を真に受ける子供ならそんなもんだろ」

と、納得できそうですが、驚くなかれ。「空手バカ一代」に出ていた空手家が恐喝の容疑で逮捕される際に、警察は機動隊を出したそうです。銃や日本刀を振り回しているわけでもない、ただの人間一人にです。

「空手の強者ならば、並みの成人男性を20人くらいは一人で倒すことができる!」などという漫画の中の設定を、一般社会も信じていた、という証拠だといえます。

 

人間は、自分で思っている以上に、「イメージ」を元に感じ、考えてしまう習性がある、ということです。

それは子供や、ゲーム・アニメにはまるオタクだけではなく、人間全体の習性なのです。だから「自分はしっかりとした人生経験もあり考えも持っている」という自信は、イメージの力の前では全く無力かもしれない、ということを頭の隅っこにおいておくべきかと思います。

世界を手に入れて神を失う

そんな表現があったようななかったような。

世界、というと大げさですが、社会的な地位、権力、評判、名声、人気、能力、お金や物、などのことでしょう。

それらがはかないものであることは、ある程度の年まで生きれば嫌でもわかってくることです。

だからといって欲しがらない、失うことを気にしない、とスパッと意識を切り替えられる人は稀でしょう。

精神世界のマスターたちが率先してお金を集めて神殿など作り、その豪華さや信者の多さ、本の売れ行きなどを「自分の教えが正しいものであるという証拠」にしている例は多すぎるくらい多いですし、求める人たちもまた、「精神性の高さ」というステータスを能力を、その結果としての巨万の富や理想のパートナを希望して集まってきているわけです。

「探求をやめよ」と唱えるマスターもいます。けれども、それで止まる人は本当に稀でしょう。求める気持ちはそもそも止まるものではないのかもしれません。

自分のなかのその衝動を愛することが、本当の意味で受け入れることができたなら、他人や世界に求めることから自由になれる、そして自分の欲や恐怖と戦うことも取りつかれることもなくなっていくのかもしれません。

そうなったときには、神、愛以外のものは存在しない、のでしょうか。自分の肉体を殺そうとしている人々を赦したかの人のように。

自分の影におびえて

子供のころに読んだ「怖い話」の中でこんなのがありました。

妖怪変化のいる城へ旅の豪胆な青年が訪れます。妖怪たちは彼を怖がらせて(物理的に傷つけるのはダメとかいうルールだったと思う)降参させて魂を奪おうとします。でも彼は笑って受け流してしまい妖怪たちは全員退散し、青年はその勝利の報酬として城を手に知れました。

ところが数年後、彼は自分の影を戻ってきた妖怪だと見間違え、いくら追い払おうとしても逃げようとしてもついてくるのにおびえて死んでしまう、というオチでした

いや何でそんな青年がそんなおびえ方すんの? と、子供心にも納得がいかなかったのを覚えています。

 

しかしまあ、今この瞬間にありもしない老いや飢えや乾きや難病や強盗や降ってくるかもしれないミサイルに怯えて自分の神経をむしばむのも同じことなのかもしれません。

だからって

「今この瞬間には何も起こっていないんだから、いっさい怯えるな」

と言われてもあまり効果はないでしょう。他人事として聞けばその通りなのですが、いざ自分の身に、死とは程遠いトラブルであっても、平然とはしていられないでしょう。

そんなおびえるのは嫌だ、何が起こっても安心できるように、引き寄せで大金や健康やソウルメイトを手にいれよう、あるいは、この世界は幻であり存在しないという悟りを得て、恐怖なくいきよう、というのが大体のスピリチュアルへの動機ではないでしょうか。

つまり物理的、俗世的に、出世して権力と富を得よう、体を鍛えていいものを食べて老いと死を遠ざけよう、というのと同じことを目指していると言えます。 

同レベルなのに、「自分たちは俗世のギラギラした欲ばりとは違う、精神的に高い人間だ」というプライドがある分、俗物性は上回っているかもしれません。

 

その欲、俗物性、そしてその根底にある恐怖。それを認め、目をそらさずに受け入れていくこと。影から逃げようとしないこと。そのことでしか、影への怯えを乗り越えることはできないのではないでしょうか。

 

パンがないならケーキを食べればいいのに

かのマリー・アントワネット王妃が言ったとか言わなかったとかいうセリフですね。

外国から迎えられた王妃なので、悪役を押し付けるためにそんなエピソードがねつ造された、という説が今現在では有力なようです。いつの時代、どこの国でも、隣国どうしのプライドやら恨みやらはあるもんかもしれませんね。

 

歴史的事実のことはさておいて、

「自分の魂の導きを信じろ、頭を忘れろ」「考えるな、感じるんだ」「今この瞬間のワクワクに従え、過去や未来なんて存在しないものにとらわれるな」

等々のことがスピリチュアル系の人生指南としてよく言われます。まあ、そうなのでしょう。正しいんでしょう。真理なんでしょう。

でも言いたい。

「それがわからないって言ってんだよ!」

けれども、マスターや宇宙意識(笑)やその教えを説いている人たちからは、「何でわからないの?」「考えすぎだよ、ちゃんと感じて。グラウンディングして」

などの、答えが返ってることでしょう。

「逆上がりができない? どうして? こう掴んでこう地をけってぐるっと回るだけでしょ?」

とでもいうように。

わからない、と叫ぶ人間のもとには、パンもケーキも、それ以前に麦がないのです。だからこうもセミナーやマスターが乱立する中を、ジプシーしまくる人々が絶えないのです。

中には、「ワクワクするから」と魂の導きを信じてブランド品を買いまくりキャバクラやホストクラブに通い、借金をかかえて自己破産なり風俗勤めに陥る人たちもいると聞きます。さもありなん。

 

では、どうすればいいのでしょう?

「Don`t think,Feeeeeeeel!」

といえばブルース・リーですが、彼はひらめきの人ではあっても、ただノリだけの人ではありませんでした。

中国拳法を修めはしたものの、型動作にとらわれて実際の戦いのなかでは通用しないと判断しました。そこで、ボクシング、空手、レスリング、柔道、フィリピンの武術など、様々なものを学び、研究し、考えつくしていた理論の人でもあるのです。そのうえで、

「実際の戦いにおいて、次の瞬間にとれる手段は無限にある。だが、現実にできるのは一つの動きだけである」というところまで考えて鍛錬を積んだうえでの

「考えるな、感じろ」なわけです。

調べ、学び、練習、フィードバックし、また研究。考えて行動しまた考える、ということを徹底した上での「感じろ」であって、思考と行動の放棄、軽蔑を説いていたわけでは決してありません。

 

「スピリチュアル」を、「今この世に肉体と頭脳をもって生まれ存在するという事実」から目を背けることに使うのでは、本末転倒になってしまうでしょう。たとえこの世のすべてが夢幻だとしても、それが「在る」と認識している以上、その認識が現実です。

 

スピリチュアルな教えを懸命に学べば不安や恐怖をどうにかできる、と思ってきた人間にはなかなか面倒で気の重いことではありますが。

スピリチュアル・パス

スピリチュアルという迂回路、という意味らしいです。

高尚な精神世界を求めているようで、その実はただの現実逃避、ということで、腐るほどありそうです。というか、そういう姿勢の人びとが存在するからこそ、スピリチュアル業界が存続しているとも言えるでしょう。

自分にも心当たりがありすぎます。

「強く願えば叶う」「潜在意識、阿頼耶識にまで届くくらいにしっかりと願望・欲望を描けば、それは現実となっていく」「歴史上の偉人達もこの法則を使って成果をだしてきたのだ、秘密とされてきたけど」

そのての本や講演をずいぶんと経てきました。

で、大金持ちやら知名度やら悟りやらを手に入れたか?

ナッシングです。

人に誇れるほどではないがそれなりの成果と言えるものは、筋トレやらジョギングを続けたことによるそこそこの細マッチョな体系と体力。少しずつというか惰性で続けている貯金、などです。

スピリチュアルは関係ありません。むしろ浪費です、時間とお金の。

そんなものに関わらずに、仕事や人間関係や趣味に打ち込み、試行錯誤している人の方がよほど人生を謳歌し「今ここ」に打ち込み、結果として成果も得ていることでしょう。

それを思うと、自分を責める気持ちが湧き出てきます。もしくは、もっと怪しげなセミナーに浪費し続けている人の話を読んで(幸い周囲にはいませんが、ネットでいくらでも出てきます)「自分はまだまし」と納得させたくもなります。

「責めたい、逃げたい」その気持ちが確かに存在することを認めて、受け入れること。それが今ここでの取り組みになるのでしょう。

無欲は大欲?

何もする気がしない、そんな時もあります。

体が疲れていて休息が必要という場合は、ただ休むことが必要でしょう。それはただの物理的なことですから問題は単純です。

ややこしいのは、それほど疲労もたまっておらず病気というわけでもないのに、何もする気にならない、ということです。借りてきたDVDや買った本などもあるのに、手を付ける気にならない。しかしこんなだらけていてはいけないのではないか、と自分をせっつく考えも浮かんでいるが、やる気がわいてこず、場合によってはトイレに行くぐらいしか腰を上げる気もしない、なんてこともあります。

 

心療内科へ行けばきっと「軽い鬱です。ゆっくり休んでください」というアドバイスとともに薬が処方されるでしょう。実際そうでした。

全く効果はありませんでしたが。

 

これは「無欲」でしょうか。

たぶん違うでしょう。無欲は大欲、という言葉があります。これは

「全部あるので欲しがる必要がない」

ということだと思います。潜在意識系のマスターたちがよく言う「既にある」というのも同じことでしょう。

それは素晴らしいことだとして、今やる気が起きずただただしんどく空しい時はどうしたらいいんでしょうか?

ありふれた答で面白くもなんともありませんが、少しだけやるべきこと、やりたいと思っていたことに手を付けてみることでしょう。最初だけは少し歯を食いしばるくらいのつもりで。

少しでも進めば、元いた場所からは少しだけでも見える風景が変わります。こんなブログを書き散らすだけでも、気分がちょっと変わったりするものですから。

 

 

んn

 

死を受け入れるなら死なない?

「もっとも憎んでもいいような敵に殺されることを受け入れたなら、死なない。肉体を再生することすら可能だ」

そんな話を聞きました。宗教の聖典に同様の話があります。

そうですね、と心底素直に納得できる内容ではありません。そもそも検証が不可能でしょう。

ですが、そこまではいかないまでも、方向性としてはわかる、ような気がします。

吃音で悩んでいた子供がある劇に参加することになり、「吃音のある」役を割り振られました。そこで「上手に」どもろうとすると、すらすらしゃべれてしまい、どうしても吃音の演技ができなかった、ということがあったそうです。

「上手くどもろうとしてみた」ということは、吃音の自分を受け入れたということなのでしょう。

眠ろう眠ろうとすると眠れなくなり、そのことを考えなくなるといつの間にか寝ていた、というのもよくある話です。

全てを受け入れる。さすればそれは敵ではなくなる、のでしょう。

 

しかし、ここが問題で、「受け入れる」という技術を使えば問題を消せる、というように捉えてしまうと、それ自体が抵抗になってしまいます。どんなに素晴らしい効果を出したメソッドであっても、効かない人が出てくるのは「良くなりたい、悪いことを消したい」という思いがあるからこそでしょう。

「どうすればいいのか」

その思考こそが、問題と敵を作り続けているのでしょう。