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自分の影におびえて

子供のころに読んだ「怖い話」の中でこんなのがありました。

妖怪変化のいる城へ旅の豪胆な青年が訪れます。妖怪たちは彼を怖がらせて(物理的に傷つけるのはダメとかいうルールだったと思う)降参させて魂を奪おうとします。でも彼は笑って受け流してしまい妖怪たちは全員退散し、青年はその勝利の報酬として城を手に知れました。

ところが数年後、彼は自分の影を戻ってきた妖怪だと見間違え、いくら追い払おうとしても逃げようとしてもついてくるのにおびえて死んでしまう、というオチでした

いや何でそんな青年がそんなおびえ方すんの? と、子供心にも納得がいかなかったのを覚えています。

 

しかしまあ、今この瞬間にありもしない老いや飢えや乾きや難病や強盗や降ってくるかもしれないミサイルに怯えて自分の神経をむしばむのも同じことなのかもしれません。

だからって

「今この瞬間には何も起こっていないんだから、いっさい怯えるな」

と言われてもあまり効果はないでしょう。他人事として聞けばその通りなのですが、いざ自分の身に、死とは程遠いトラブルであっても、平然とはしていられないでしょう。

そんなおびえるのは嫌だ、何が起こっても安心できるように、引き寄せで大金や健康やソウルメイトを手にいれよう、あるいは、この世界は幻であり存在しないという悟りを得て、恐怖なくいきよう、というのが大体のスピリチュアルへの動機ではないでしょうか。

つまり物理的、俗世的に、出世して権力と富を得よう、体を鍛えていいものを食べて老いと死を遠ざけよう、というのと同じことを目指していると言えます。 

同レベルなのに、「自分たちは俗世のギラギラした欲ばりとは違う、精神的に高い人間だ」というプライドがある分、俗物性は上回っているかもしれません。

 

その欲、俗物性、そしてその根底にある恐怖。それを認め、目をそらさずに受け入れていくこと。影から逃げようとしないこと。そのことでしか、影への怯えを乗り越えることはできないのではないでしょうか。

 

パンがないならケーキを食べればいいのに

かのマリー・アントワネット王妃が言ったとか言わなかったとかいうセリフですね。

外国から迎えられた王妃なので、悪役を押し付けるためにそんなエピソードがねつ造された、という説が今現在では有力なようです。いつの時代、どこの国でも、隣国どうしのプライドやら恨みやらはあるもんかもしれませんね。

 

歴史的事実のことはさておいて、

「自分の魂の導きを信じろ、頭を忘れろ」「考えるな、感じるんだ」「今この瞬間のワクワクに従え、過去や未来なんて存在しないものにとらわれるな」

等々のことがスピリチュアル系の人生指南としてよく言われます。まあ、そうなのでしょう。正しいんでしょう。真理なんでしょう。

でも言いたい。

「それがわからないって言ってんだよ!」

けれども、マスターや宇宙意識(笑)やその教えを説いている人たちからは、「何でわからないの?」「考えすぎだよ、ちゃんと感じて。グラウンディングして」

などの、答えが返ってることでしょう。

「逆上がりができない? どうして? こう掴んでこう地をけってぐるっと回るだけでしょ?」

とでもいうように。

わからない、と叫ぶ人間のもとには、パンもケーキも、それ以前に麦がないのです。だからこうもセミナーやマスターが乱立する中を、ジプシーしまくる人々が絶えないのです。

中には、「ワクワクするから」と魂の導きを信じてブランド品を買いまくりキャバクラやホストクラブに通い、借金をかかえて自己破産なり風俗勤めに陥る人たちもいると聞きます。さもありなん。

 

では、どうすればいいのでしょう?

「Don`t think,Feeeeeeeel!」

といえばブルース・リーですが、彼はひらめきの人ではあっても、ただノリだけの人ではありませんでした。

中国拳法を修めはしたものの、型動作にとらわれて実際の戦いのなかでは通用しないと判断しました。そこで、ボクシング、空手、レスリング、柔道、フィリピンの武術など、様々なものを学び、研究し、考えつくしていた理論の人でもあるのです。そのうえで、

「実際の戦いにおいて、次の瞬間にとれる手段は無限にある。だが、現実にできるのは一つの動きだけである」というところまで考えて鍛錬を積んだうえでの

「考えるな、感じろ」なわけです。

調べ、学び、練習、フィードバックし、また研究。考えて行動しまた考える、ということを徹底した上での「感じろ」であって、思考と行動の放棄、軽蔑を説いていたわけでは決してありません。

 

「スピリチュアル」を、「今この世に肉体と頭脳をもって生まれ存在するという事実」から目を背けることに使うのでは、本末転倒になってしまうでしょう。たとえこの世のすべてが夢幻だとしても、それが「在る」と認識している以上、その認識が現実です。

 

スピリチュアルな教えを懸命に学べば不安や恐怖をどうにかできる、と思ってきた人間にはなかなか面倒で気の重いことではありますが。

スピリチュアル・パス

スピリチュアルという迂回路、という意味らしいです。

高尚な精神世界を求めているようで、その実はただの現実逃避、ということで、腐るほどありそうです。というか、そういう姿勢の人びとが存在するからこそ、スピリチュアル業界が存続しているとも言えるでしょう。

自分にも心当たりがありすぎます。

「強く願えば叶う」「潜在意識、阿頼耶識にまで届くくらいにしっかりと願望・欲望を描けば、それは現実となっていく」「歴史上の偉人達もこの法則を使って成果をだしてきたのだ、秘密とされてきたけど」

そのての本や講演をずいぶんと経てきました。

で、大金持ちやら知名度やら悟りやらを手に入れたか?

ナッシングです。

人に誇れるほどではないがそれなりの成果と言えるものは、筋トレやらジョギングを続けたことによるそこそこの細マッチョな体系と体力。少しずつというか惰性で続けている貯金、などです。

スピリチュアルは関係ありません。むしろ浪費です、時間とお金の。

そんなものに関わらずに、仕事や人間関係や趣味に打ち込み、試行錯誤している人の方がよほど人生を謳歌し「今ここ」に打ち込み、結果として成果も得ていることでしょう。

それを思うと、自分を責める気持ちが湧き出てきます。もしくは、もっと怪しげなセミナーに浪費し続けている人の話を読んで(幸い周囲にはいませんが、ネットでいくらでも出てきます)「自分はまだまし」と納得させたくもなります。

「責めたい、逃げたい」その気持ちが確かに存在することを認めて、受け入れること。それが今ここでの取り組みになるのでしょう。

無欲は大欲?

何もする気がしない、そんな時もあります。

体が疲れていて休息が必要という場合は、ただ休むことが必要でしょう。それはただの物理的なことですから問題は単純です。

ややこしいのは、それほど疲労もたまっておらず病気というわけでもないのに、何もする気にならない、ということです。借りてきたDVDや買った本などもあるのに、手を付ける気にならない。しかしこんなだらけていてはいけないのではないか、と自分をせっつく考えも浮かんでいるが、やる気がわいてこず、場合によってはトイレに行くぐらいしか腰を上げる気もしない、なんてこともあります。

 

心療内科へ行けばきっと「軽い鬱です。ゆっくり休んでください」というアドバイスとともに薬が処方されるでしょう。実際そうでした。

全く効果はありませんでしたが。

 

これは「無欲」でしょうか。

たぶん違うでしょう。無欲は大欲、という言葉があります。これは

「全部あるので欲しがる必要がない」

ということだと思います。潜在意識系のマスターたちがよく言う「既にある」というのも同じことでしょう。

それは素晴らしいことだとして、今やる気が起きずただただしんどく空しい時はどうしたらいいんでしょうか?

ありふれた答で面白くもなんともありませんが、少しだけやるべきこと、やりたいと思っていたことに手を付けてみることでしょう。最初だけは少し歯を食いしばるくらいのつもりで。

少しでも進めば、元いた場所からは少しだけでも見える風景が変わります。こんなブログを書き散らすだけでも、気分がちょっと変わったりするものですから。

 

 

んn

 

死を受け入れるなら死なない?

「もっとも憎んでもいいような敵に殺されることを受け入れたなら、死なない。肉体を再生することすら可能だ」

そんな話を聞きました。宗教の聖典に同様の話があります。

そうですね、と心底素直に納得できる内容ではありません。そもそも検証が不可能でしょう。

ですが、そこまではいかないまでも、方向性としてはわかる、ような気がします。

吃音で悩んでいた子供がある劇に参加することになり、「吃音のある」役を割り振られました。そこで「上手に」どもろうとすると、すらすらしゃべれてしまい、どうしても吃音の演技ができなかった、ということがあったそうです。

「上手くどもろうとしてみた」ということは、吃音の自分を受け入れたということなのでしょう。

眠ろう眠ろうとすると眠れなくなり、そのことを考えなくなるといつの間にか寝ていた、というのもよくある話です。

全てを受け入れる。さすればそれは敵ではなくなる、のでしょう。

 

しかし、ここが問題で、「受け入れる」という技術を使えば問題を消せる、というように捉えてしまうと、それ自体が抵抗になってしまいます。どんなに素晴らしい効果を出したメソッドであっても、効かない人が出てくるのは「良くなりたい、悪いことを消したい」という思いがあるからこそでしょう。

「どうすればいいのか」

その思考こそが、問題と敵を作り続けているのでしょう。

 

それでも語り始めてみる

スピリチュアルな指導をなさっている方の勧めで、自分なりの言葉で語ることを始めました。

とはいえ、霊が見えるとかそういった能力は持ち合わせておりません。以前はチャネリングとか透視とかそういった能力に興味を持ってあれこれ探求したこともありましたが、今は興味がなくなりました。

それよりも、「生きていることの苦しさ、恐怖」、それが根底にあり、そこから逃げるために霊的な知識や能力を求めていたんだ、とわかってきたので、そこに取り組まないことにはどうにも始まらないと思い至った次第です。

けれどもそうなると、「どうやったら悟りを開いて苦しみがなくなるのか」と、またハウトゥを探し回るという罠に陥ることにもなりかねませんね。実際、そういったビジネスもあるようですし。

「悟りの第一段階用マントラが5万円、それを受けて修行を続けたものだけが受け取れる第二段階マントラが10万円」とかなんとか。商売として成り立っているのだから、それなりに買う人がいるってことでしょう。

そういうものに近づく気はさらさらありませんが、といってどうすればいいかとはっきり自信を持っているわけでもありません。

自分に向き合う。世界に向き合う。誠実に。

言ってみればそれだけなのでしょうが、それはただの「言葉」です。

それでも、自分の言葉で語っていこうと思います。それが、自分や世界とつながっていくことになる、何となくですがそう感じているから。